持統天皇(41)

 

第41代 持統天皇は天智天皇の第2皇女。大海人皇子(天武天皇)の妃となり、天武天皇即位後皇后となった。
天武没後は称制し子の草壁皇子の皇位継承の準備を整えていたものの草壁皇子は急逝。孫の軽皇子(文武天皇)が成長するまでの中継ぎとして即位したという。即位後は諸制度を整備し律令国家の確立に努め、藤原京を建設して遷都した。

名前

第41代 持統天皇(じとうてんのう)、鸕野讃良皇女 (うののさららのひめみこ)

親族

父=天智天皇 母=女遠智娘(おちのいらつめ) 蘇我倉山田石川麻呂の娘 )
配偶者 天武天皇

草壁皇子

軽、珂瑠(文武天皇

皇居

藤原京


藤原京跡

       

陵墓

陵名:  檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)
形状:  円丘(八角)
所在: 奈良県高市郡明日香村大字野口


正面


側面

略歴 (7世紀)(8世紀
645-乙巳-大化01年 生誕
657-丁巳-斉明03年 叔父にあたる大海人皇子(天武天皇)に嫁す。13歳
671-壬午-天智10年10月17日 天皇継承による嫌疑を避けるため大海人の一緒に吉野に入る
671-壬午-天智10年12月03日 天智天皇崩御
672-癸未-弘文01年06月24日 出家・隠棲していたが弘文天皇を討つ為に吉野を出る
672-癸未-天武01年07月21日 壬申の乱。瀬田川の戦い。大海人皇子の軍と弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷軍が瀬田川で戦闘
672-癸未-天武01年07月23日 弘文天皇が自害
673-甲申-天武02年02月27日 天武天皇が天皇となる、自らは皇后となる
686-丙戌-朱鳥01年07月20日 朱鳥[しゅちょう/すてう]に改元
686-丙戌-朱鳥01年09月09日 夫である天武天皇が崩御。息子の草壁皇子と母子2人で国政を執行する体制を整える
686-丙戌-朱鳥01年10月02日 大津皇子の謀反が発覚
686-丙戌-朱鳥01年10月02日 大津皇子に死を命ず.
687-丁亥-持統01年10月22日 大内陵の築造に着手
688-戊子-持統02年11月05日 天武天皇を大内陵に葬る
689-己酉-持統03年04月13日 息子の草壁皇子が28歳で歿。草壁皇子の息子の軽皇子が成長するまでの中継ぎのして正式な即位を決意
689-己酉-持統03年12月08日 中国から渡来した双六(すごろく)を禁止する
690-庚寅-持統04年01月01日 即位
691-辛卯-持統05年10月01日 日食
694-甲午-持統08年12月06日 飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都
697-丁酉-持統11年08月01日 父子相承こそが国家安泰の基礎であるとして孫の軽皇子(文武天皇)に譲位する
701-辛丑-大宝01年06月29日 吉野離宮へ行幸
701-辛丑-大宝01年07月10日 吉野離宮から還幸
702-壬寅-大宝02年10月10日 東国(尾張、美濃)行幸へ出発
702-壬寅-大宝02年11月22日 伊勢に行幸
702-壬寅-大宝02年12月13日 病気が重くなったので全国に大赦をした。100人を出家、得度させ僧としている
702-壬寅-大宝02年12月22日 崩御
「素服(麻の白い無地の喪服)を着たり、挙哀(死者を悼んで泣き叫ぶ儀礼)をすることがないようにせよ。文官、武官は任務を平常どおりにおこなえ、葬儀の儀礼についてはつとめて倹約せよ」との遺詔が出されている。
703-癸卯-大宝03年10月 葬送の儀
703-癸卯-大宝03年12月17日 この日、持統上皇に諡号を贈り飛鳥の岡で火葬。
皇族・官僚を代表して当麻智徳(たぎまのちとこ)が誄(しのひこと、弔辞)を述べ、「大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあまのひろのひめのみこと)」という諡号を奉った。天皇に対する最初の火葬記録でもある。
703-癸卯-大宝03年12月26日 天武陵に合葬する

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