| 中臣鎌足は、死の直前に天智天皇から藤原の姓を賜ります。中大兄皇子らと大化の改新を起こすなど日本の歴史に多大の貢献をした人物として有名な人物。天智天皇から藤原の姓を賜り、あの強大な藤原氏の礎を築く。 | ||||||||||
| 名前 | 大職冠 藤原鎌足 中臣鎌子連 中臣鎌足 | |||||||||
| 親族 | 父 | 中臣御食子(なかとみのみけこ) | ||||||||
| 母 | 大伴夫人(おおともぶにん) | |||||||||
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| 鎌足の母の大伴夫人の墓は、東西11m、南北12m、高さ2.4mの円墳。奈良県高市郡明日香村小原 飛鳥坐神社の右横の緩やかなカーブを上って行くと、大原の里があります。今は小原と書いて「おおはら」と読みます。ここに生母大伴夫人墓があります。中臣御食子(なかとみのみけこ)に娶られ、鎌足を生んだ大伴夫人は、大伴咋子の娘。智仙娘とよばれていたようです。 |
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| 妻 | 天智天皇の妃を譲り受けて妻とする。 (今では考えられないが、天智との仲はそれほど深かったということか?) | |||||||||
| 大阪府で昭和09年04月、地震観測所の地下トンネル掘削工事で発見された石室の漆製の棺から半分近く肉体の残った老人の遺体が出てきた。100年以上も前の遺骸に肉が残った前例の無い発見に混乱した関係者は、調査の主導権争いでそのまま放置されてしまう。情けない話ではある。 発表はそれから半世紀後の昭和62年11月02日。
と発表。事実は謎のままですが、被葬者は鎌足だと思いたいですよね。 |
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| 略歴(7世紀) | |
| 614-甲戌-推古22年 |
![]() ![]() 生誕 鎌足の母の墓所のすぐ傍に大原神社という寂れた神社がありますが、ここが鎌足の生誕地といわれ、産湯の井戸もあったようです。鎌足の邸宅もこのあたりにあったといわれています。 |
| 644-甲辰-皇極03年01月01日 | この年、中大兄(天智天皇)と親しくなる。 |
| 645-乙巳-皇極04年06月12日 | 中大兄(天智天皇)らと蘇我入鹿殺害が実行される
。 次期天皇となる孝徳も作戦に加わっていたとされるが定かではない。 |
| 645-乙巳-皇極04年06月14日 | 天万豊日尊(あめよろずとよひ)(孝徳天皇)が即位する。 安倍内麻呂臣や蘇我倉山田石川麻呂が左大臣や右大臣とされる中、鎌足も大錦の冠位をうけるとともに中臣の位と封(へひと)と呼ばれた食封も加増される。 |
| 669-己巳-天智08年05月05日 | 天智天皇のお供での狩の最中落馬骨折。 |
| 669-己巳-天智08年10月10日 | 天智天皇自らの見舞いを受ける
。 望みを聞かれた鎌足は、生きているときはあまり役に立たなかったので死んでまで皆に苦労を掛けたくない・・とただただ薄葬を望み、他は語らなかったという。 |
| 669-己巳-天智08年10月15日 | 臨終に際して天智天皇から大職冠の称号と藤原の姓を賜る。 「前代のことを思うに、代々執政の臣は一人二人ではない。にもかかわらずその誰もがあなたには比べるに足りない。朕だけがあなたを大切に思うだけではない、後々の天皇も確かにあなたの子孫を大切にするだろう。忘れることなく遺(のこ)すことなく、広く厚く酬(むく)い答えよう。この頃病が重いと聞いて朕は心を痛めている。あなたを適切な官職に任じよう」といわれ、当時の最高位である大職冠と「藤原」の姓を賜う。 |
| 669-己巳-天智08年10月16日 | 死去 享年56歳 この時代を、裏で支え続けた人物の死で、壬申の乱を止めることは出来なくなった。東国へ決死の脱出行の途中、大海人皇子はもし「まだ鎌足が生きていればこんな苦しみにあわずに済んだものを」、と述懐したという。 |
| 670-庚午-天智09年閏09月06日 | 山階舎(やましなのてら、興福寺の前身)で火葬された |