天武天皇(40)

 

名前

第40代 天武天皇(てんむてんのう)、大海人、天渟中原瀛真人(あめのぬなかはらおきのまひと)
               

親族

父=舒明天皇  母=宝皇女  
皇后=鸕野讃良皇女(うののさらら)(持統天皇)---子=多紀皇女(志貴皇子に嫁す)
  皇后 鸕野讃良皇女(うののさらら)(持統天皇
   

草壁皇子
  大田皇女(鸕野讃良の姉)
   

大来皇女(おおくのひめみこ)
      大津皇子(おおつのみこ)
  大江皇女(おおえのひめみこ)(天智天皇の娘)
 

新田部皇女(にいたべのひめみこ)
   

舎人皇子(とねり)(日本書紀の編者)
               

皇居

飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)


飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)跡

       
   

陵墓

陵墓=檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)、古墳名=野口皇ノ墓古墳、形状=形状:円丘(8角)
場所:奈良県高市郡明日香村野口

壬申の乱に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇とその皇后で次の天皇となった持統天皇が合葬されている御陵で、墳丘は東西58m、南北45m、高さ9mの円墳状をなしている。
鎌倉時代に盗掘に合い、その際の記録によれば、
「墳丘は5段築成の八角形墳で、南を入口とする全長7.5mの大理石(瑠璃石)積墓室がある。墓室は前後ニ室に分かれ、奥が長さ4.5m、幅3m、高さ3mの玄室で全面朱塗りである。前室と玄室の間には両開き金鋼製の仕切り扉がある。
玄室内には天武天皇が葬られた布張り朱塗りの棺と、持統天皇の火葬骨を納める金鋼製骨臓器が金鋼製の棺台の上に置かれている」


正面

               
略歴 (7世紀
657-丁巳-斉明03年 13歳の姪である鸕野讃良皇女(後の持統天皇)を妃とする
671-壬午-天智10年10月17日 天智天皇は病気が重くなり後事を託されるが辞退して吉野に入る
大友皇子が立太子
671-壬午-天智10年12月03日 天智天皇崩御
672-癸未-弘文01年06月24日 出家・隠棲していたが弘文天皇を討つ為に吉野を出発
672-癸未-天武01年07月21日 壬申の乱。瀬田川の戦い。大海人皇子の軍と弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷軍が瀬田川で戦闘
672-癸未-天武01年07月23日 弘文天皇が自害
672-癸未-天武01年08月25日 大友郡の罪状と処分を発表
672-癸未-天武01年08月27日 武勲をたてた人を褒め恩賞を賜る。
672-癸未-天武01年09月08日 大和京(飛鳥)に向け出発
672-癸未-天武01年09月12日 大和京(飛鳥)に到着し嶋宮に入る。
672-癸未-天武01年09月15日 嶋宮から岡本宮に移る。
この年、岡本宮の南に浄御原宮に移っている
673-甲申-天武02年02月23日 立太子
673-甲申-天武02年02月27日 飛鳥浄御原宮で即位。鸕野讃良皇女(うののさらら)を皇后とする。
675-丙戌-天武04年1月5日 天文を観察し吉凶を占う為の日本初の占星台を設
680-庚辰-天武09年11月12日 皇后の病気回復を願い薬師寺の造営を開始する。完成は17年後の西暦697年()
686-丙戌-朱鳥01年05月24日 発病する(病名不明)
諸寺に読経・燃灯供養などを行い、広く大赦を実施し、税の減免を行い飛鳥の四つの神社や紀伊の国懸神社、摂津の住吉大社を始め土佐坐神社などの神社に奉幣したが効果なく、また占いによるとその病は草薙剣(くさなぎのつるぎ、三種神器の一)の祟(たた)りと出たので天智七年(668)、新羅僧に盗まれたがそれを取り押さえて以来宮中にあった草薙剣を急いで熱田神宮に返したりしたが、効果はなかったようだ
686-丙戌-朱鳥01年09月09日 崩御
病気であった天武天皇はこの日飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮の正宮(皇居)で崩御。壬申の乱に大友皇子を倒して即位、中央集権による古代律令国家の完成を目指して十四年、業半ばにしての崩御であった。以後皇后がが臨朝称制された。
天皇崩御後一時的に皇后が大権を代行するのはこれ以前からの伝統に基づくものであった。

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