メモ
語句及び人物 読み 解説
泉屋 いずみや 現在大企業となった「住友」の前身。1591天正19年泉州堺浦の南蛮人白水から泉屋理右衛門が南蛮絞を学
んだのが始まりとされる。「泉屋」の屋号はその白水の二文字を合体させたものだといわれる。
大塚家 おおつかけ 大塚家(福岡屋)は吹屋銅山(吉岡銅山)で1716年(享保)から1842年(天保)まで稼業おおいに繁栄した。 
まだよくわからないが大坂古来銅屋16人の大塚屋とは無関係のようである・
からみ 銅を精製する過程において出てくるいわゆる精錬カスの固まったもの。ドブとも呼ばれる。
゚煉瓦 ゚煉瓦 ゚を煉瓦状に加工して建材として利用しようとしたもの。

写真は、住友の四阪島精練所で作成されたもの(マイントピア別子)
歓喜間符 かんきまぶ 愛媛県新居浜市の銅山峰の頂上から南斜面を200mほど下がったところにある。1691元禄04辛未年住友の
別紙銅山が開鉱された時最初に作られた銅鉱山坑口
切上り長兵衛 きりあがりちょうべえ 長兵衛は阿波の国生れ、生年のころ鉱山歩を志し伊予の立川銅山で働いた。坑道を上向きに堀進むのを得
意としたので「切上り長兵衛」と呼ばれる。銅山峰の南側で銅の露頭を発見したが立川銅山には知らせず吉
岡銅山の泉屋に知らせる。泉屋別子銅山の発見功労者。
仲持 なかもち 元禄4年の別子銅山開坑以来明治13年に牛車道が開設されるまで、奥深い別子銅山から精錬された荒銅や
生活物資(男45kg、女30kg)を背負って険しい山道を運搬した人達。最盛期には600人を超えたといわれる。
(マイントピア別子)


なお別子以前の大坂屋の立川銅山時代にも存在していたと思われる。
南蛮絞り なんばんしぼり 精鉱技術の未熟な江戸時代の銅の中には多くの銀を含んでいた。その銀を含んだ銅から銀を絞り出す技
術。1591天正19年泉州堺浦の南蛮人白水から泉屋理右衛門が学んだとされる。
本鋪 ほんじき その鉱山での主たる生産坑道のこと
露頭 ろとう 鉱床や鉱脈が地表に露出している部分をさす
やけ やけ 露頭と同義、銅鉱の露頭は銅が酸化し表面が焼けたようにくすんで見える。特に品位が高いものは銅が硫黄
とともに流れ出し蜂の巣のようになる「蜂の巣やけ」といいこの穴が多いほど良質の鉱脈存在を示す。