銅商 大坂屋

 

何をきっかけに大坂屋の調査を始めたのか、はっきりと記憶していないが、これほど興味深い対象には今まで出会ったことがない。
日本全国どこに行っても歴史の影にほんのちょっとだけ姿を見せ、まるで私を焦らすかのように全体像を見せてくれない「大坂屋(おおざかや)」の調査を私のライフワークとすることに決めた。
本家大坂屋の14代目官浪辰夫さんを始め多くの方々の指導を仰ぎながら銅商人大坂屋を追いかけ続けたいと思っている。

以下は大坂屋に関する歴史年表だが、まだまだ稚拙、あちこちと飛びまわり調べていますので徐々に充実してるので気長にお付き合い頂きたい。

 

 


阿仁銅山を出た荒銅は阿仁川を下り能代湊へ!

阿仁銅山で荒製錬された荒銅は本精錬のために大坂へ送られる。

左の小さい写真は現在の能代港であるが、当時もこのあたりから出港したのだろうか。

右の大きい写真が現在の敦賀の港。

陸揚げされた荒銅は琵琶湖北岸(塩津かもしくは海津)へ陸送され船につまれて大津へ。

 

 

江戸時代、全国の銅鉱山で活躍した銅商人大坂屋の情報を求めています。
どんな些細な情報でも  へよろしくお願いします。

平成28年06月26日更新  管理人

1309延慶02年 秋田湯口内金山発見
1576天正04丙子年 @大阪屋久左衛門が摂津國西成郡北中嶋柴嶋村(現大阪市東淀川区)で生誕 
1582天正10壬午年06月02日 本能寺の変
1585天正13乙酉 秀吉の命により大阪城の西の惣構堀としての東横堀川が開削される
15870907天正15丁亥08月05日 延岡に高橋元種が入封
1591天正19辛卯年 泉州堺浦の南蛮人白水から泉屋理右衛門が南蛮絞を学ぶ
1594文禄03 東横堀川開削
1596慶長01丙申年 @大阪屋久左衛門(21)が開業、最初は備中吉岡銅山で蓄財したものだと思われる。

 

1597慶長02年丁酉 慶長の役
1600慶長05庚子 西横堀の開削はこの頃以前の開削だといわれる。
1600慶長05庚子09月15日 関ヶ原の合戦
1601慶長06辛丑 延岡の高橋元種が南方の松尾城から延岡城に移る。
1602慶長07壬寅年 佐竹氏の秋田移封、大坂屋久左衛門は佐竹氏家臣の牛丸の要請を受け秋田阿仁銅山開発に着手
@久左衛門(27)
1603慶長08年癸卯 家康が江戸幕府を開く
1603慶長08癸卯年 大阪屋が備後から大坂北炭屋町(現在の大阪市中央区西心斎橋)に移転、銅吹業を開始。南蛮吹は当時の最先端技術であった。@久左衛門(28)
1612慶長17壬子年 安井道頓による大坂道頓堀川の開削開始
16131216慶長18癸丑11月05日 延岡の高橋元種改易。陸奥棚倉の立花宗茂に預けられる
16140817慶長19甲寅07月12日 延岡に有馬直純が島原日野江より入封
1614慶長19甲寅10月 大坂冬の陣、延岡の有馬直純も家康の制止を無視して参戦
16141110慶長19甲寅10月09日 元延岡藩主高橋元種(44)が陸奥棚倉で死去
1615慶長20年乙卯 道頓堀川が完成
1615慶長20年04月 大坂夏の陣
1616元和02丙辰年 秋田阿仁銅山の浄土宗一心山圓信院専念寺が北秋田市阿仁銀山下新町に再興される。元は真木沢銅山お台所付近にあったものだといわれる。
1617元和03丁巳 西横堀川の開削
1619元和05己未 西横堀の東岸炭屋町の開発はこの頃以前だといわれる。
1622元和08壬戌 長堀川完成
1624寛永元年甲子 立川銅山の開坑は寛永年間といわれる
1631寛永08年辛未 大阪屋はこの頃には既に海外貿易を行っていたとの記録がある。@久左衛門(56)
1636寛永13年丙子 伊予西条藩に一柳直重就封
1637寛永14丁丑12月03日 島原の乱
1638寛永15戊寅 銅の輸出が禁止となる 初代久左衛門(63) 古来銅屋16人記録
1641寛永18辛巳 備後福山大坂屋久十郎の長男久三郎(後のA大坂屋久左衛門)生誕
1645正保02年乙酉 幕府が銅輸出を解禁 @久左衛門(70)
1658万治元戊戌年 @大坂屋久左衛門(83)と妻かるの娘寅生誕
1661寛文元辛丑 @大坂屋久左衛門隠居、A大坂屋久左衛門が家督相続。
久左衛門の妻かるは備後福山藤井安右エ門の娘である。久左衛門は備後福山大坂屋久十郎の長男久三郎21歳を長女寅4歳の婿養子に迎え大坂屋の後継者とした @久左衛門(86)  A久左衛門(21)
1665寛文05年 伊予西条藩の一柳直興改易
1666寛文06丙午 @久左衛門の次男長松生誕。(後のB久左衛門清浚)
1667寛文07丁未年 大阪屋手代七郎右衛門が秋田阿仁の三枚銅山を開拓 A久左衛門(27)
1668寛文08戊申07月15日 @久左衛門(93)が越後敦賀で没。墓所は大坂天王寺村(現在の大阪市天王寺区逢坂)一心寺と敦賀(現在の福井県敦賀市)善妙寺中鎮護院にある。A久左衛門(28)
1670寛文10庚戌 大坂屋は手代七郎右衛門が秋田阿仁三枚銅山の調査を命じる。同年、同じく手代の彦兵衛が三枚山に銅鉱を発見(豪商大坂屋HP)  A久左衛門(30)
1670寛文10庚戌 伊予西条藩に松平頼純就封
1670寛文10庚戌年 阿仁鉱山は金銀山を廃止して阿仁銅山として再開発
1673寛文13癸丑 大坂屋は阿形宗智らと結んで幕府足尾銅山の一手取扱いと輸出銅への口銭賦課を企てる A久左衛門(33)
1673寛文13癸丑09月21日 京都大火などの災異のため延宝に改元
1678延宝06戊午年 大阪屋に銅貿易株が認可され幕府御用商人として泉屋(住友)らとともに「16人株仲間」となる。A久左衛門(38)
1680延宝08庚申年 松尾芭蕉が江戸深川に草庵を結ぶ。A久左衛門(40)
1681天和01辛酉年 泉屋が吉岡銅山稼業開始
1682天和02壬戌 A大坂屋久左衛門は42歳で隠居、B大坂屋久左衛門清浚(初代久左衛門の次男長松17歳)が家督相続。 A久左衛門は初代大坂屋久右衛門と名を変え大坂炭屋町で両替商を興す。
1685貞享02乙丑07月14日 「生類憐みの令」発布
1687貞享04丁卯年 内藤平藩は不安定な経済状況が続き大坂屋から1300両を借りている B久左衛門清浚(22)
16881023元禄元戊辰09月30日 貞享から元禄に改元
1689元禄02己巳年 四国佐々連鉱山で大坂屋開鉱 B久左衛門清浚(24)
16890217元禄02己巳01月28日 秋田阿仁銅山の大坂屋彦兵衛没。墓石の施主は大阪屋伊左衛門、小兵衛、長左衛門、五郎兵衛、太兵衛。
B久左衛門清浚(24)
1690元禄03庚午年秋 案内役の炭焼き松右衛門、泉屋吉岡銅山の支配人田向十右衛門らが四国別子銅山発見
1691元禄04辛未年05月09日 幕府は別子銅山開坑許可を住友に与える(豪商大阪屋久左衛門HP) この年が別子銅山(住友)の開鉱とされている。B久左衛門清浚(26)
1691元禄04辛未年09月22日 泉屋が別子銅山の採鉱を開始
1691元禄04辛未年12月01日 泉屋が別子銅山で精錬を開始
1692元禄05壬申年 立川銅山経営を真鍋弥一右衛門が大阪屋吉兵衛から引き継ぐ。立川銅山は神野藤兵衛-土佐の国寺西喜助-紀州の熊野屋彦四郎‐大阪の渡海屋平左衛門-大坂屋吉兵衛-この年の真鍋弥一右衛門へと移っている。
1692元禄05壬申年08月 斯波園女(芭蕉門下)が夫斯波一有とともに大坂に移住
1694元禄07甲戌年04月25日 別子銅山大火。132名焼死 。 切揚長兵衛もこの時焼死(伊予路の歴史と文化)
1694元禄07甲戌年09月27日 斯波園女宅に招かれた松尾芭蕉は彼女のことを「白菊の目に立てて見る塵もなし」と詠んでいる。
1694元禄07甲戌年10月12日 松尾芭蕉歿 大坂御堂筋の旅宿花屋仁右衛門方で客死。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
1695元禄08乙亥年04月25日 立川銅山の大黒間符と別子銅山の大和間符が貫通。立川別子両鉱山の紛争が始まる B久左衛門清浚(30)
1695元禄08乙亥年08月 別子銅山の泉屋が立川との境界紛争を江戸の評定所に提訴
1696元禄09丙子年 普通鉱山は5年の年季である。別子も始めのころは年季なので泉屋もこの年二度目の継続稼業を願い出ている。
1697元禄10丁丑年 C大坂屋甚之烝清胤生誕 B久左衛門清浚(32)
1697元禄10丁丑年02月04日 別子立川銅山の境界紛争採決。別子側が勝訴
1697元禄10丁丑年 秋田藩各地の銅山には大坂屋はじめ住友、鴻池、北国屋など多くが参画していたがこの年には、阿仁11山を大坂屋が一手に独占して経営するようになっていた  B久左衛門清浚(33)
1701元禄14辛巳年 久左衛門清浚は泉屋とともに江戸に赴き勘定奉行の荻原近江守重秀に銅山経営について数十箇条の意見書を提出。B久左衛門清浚(37)
1701元禄14辛巳年 大坂銅座開設
1701元禄14辛巳年 立川銅山経営が京都の糸屋割賦銭仲間となる
1702元禄15壬午年 立川別子訴訟を起こした真鍋弥一右衛門と立川庄屋神野藤兵衛が江戸で投獄される。
1702元禄15壬午年 別子銅山の永代稼業権が泉屋に認められる。荒銅が銅山越を通って新居浜の大江まで2日で運び出せるようになる。これまでは小箱峠を越えて宇摩郡天満の浦まで2継3日かかっていた。
1704宝永01年 立川銅山も別子銅山と同じ幕領となる。
1704宝永01甲申年07月 立川銅山は菱屋五兵衛、長崎屋忠七、鮫屋三郎衛門の三人の名で京都銭座の請負に決まる
1707宝永04丁亥09月10日 A久左衛門であって42歳で隠居した大坂屋久右衛門(67)が敦賀で死去。B久左衛門清浚(42)
1708宝永05戊子年05月29日 切揚長兵衛没 海山利白信士(新居浜市曹洞宗慈眼寺過去帳)(山村文化28) B久左衛門清浚(43)
1710宝永07年 阿仁一ノ又銅山発見
1710宝永07年閏08月11日 M6.5伯耆・美作地震(理科年表) 別子銅山で坑道毀損(別子銅山記念館)
1712正徳02壬辰 第一次銅座廃止。
1712正徳02壬辰 大坂の銅商人16人が銅輸出を請負うことを希望した。結局銅吹屋仲間17人が認められた。(日本史学年次論文集-近世T-近世大坂の銅関連業者)
1715正徳05乙未年 幕府は外国貿易に金銀にかえて銅をあてることを決めた。これにより長崎御用銅の廻銅定額を各藩に割付けた。
1715正徳05乙未年09月14日 B大坂屋久左衛門清浚[50)没。C大坂屋甚之烝清胤(19)が家督継承
1716享保元年丙申 秋田阿仁銅山が産銅日本一となる。この年に出羽永松銅山(山形県最上郡大蔵村永松)の経営を開始 。 

C甚之烝清胤(20)

1719享保04己亥年 経済が斜陽化するなか大坂屋は綱紀粛正を基本とする家政改革を行う C甚之烝清胤(23)
1719享保04己亥年 C甚之烝清胤(23)と松の長男D吉之助生誕
1721享保06辛丑 別子銅山は松山藩御預所となる。
1721享保06辛丑 C甚之烝清胤の次男永次郎生誕。後のE大坂屋久左衛門智清
1722享保07壬寅年 吉岡銅山を大塚家(福岡屋)が引き継ぐ。
1723享保08癸卯年04月05日 C甚之烝清胤(27)が江戸で病没、D吉之助清達(5)が大坂屋を相続
1724享保09甲辰年07月17日 D吉之助清達(6)病没。E大坂屋久左衛門智清(4)が家督を継承
1727享保12丁未年 大坂屋が立川銅山経営を京都糸割符仲間山師より引き継ぐ『泉屋叢考7』。大坂屋永次郎が立川銅山経営へ『山村文化』 永次朗はE大阪屋久左衛門智清(7)のことである。
1738元文03戊午年 秋田藩で鋳銭を開始。E久左衛門智清(18)
1738元文03戊午年 大坂で銅座が再開される
1738元文03戊午07月 御用銅買上値段が下がり大坂屋は立川銅山の規模縮小で27人を解雇、ために下財すべてが同心して下山というストライキが発生。隣の別子に27人以外の者を採用しないよう要請。この時の大坂屋手代は嘉右衛門。
17440403寛保04甲子02月21日 寛保から延享に改元
1745延享02乙丑 秋田藩で行ってきた鋳銭では藩から利益を得られず2万両の赤字を計上
6代久左衛門智清(25)
1746延享03年甲子 四国立川銅山を泉屋に売却。秋田の損失補てんに充てられる。E久左衛門智清(26)
1746061延享03丙刁04月13日 吉岡銅山の福岡屋大塚利右衛門丑重歿 享年41
1747延享04年丁卯 この年の立川銅山の産銅量は426,474斤『泉屋叢考7』
1747延享04年丁卯 E久左衛門智清(27)の長男永松生誕、後のF久左衛門清冨
1748寛延01年 四国別子銅山での経営者交代反対運動が起こり、願書が江戸屋敷に送られる争議になっていた。六代久左衛門は手代を四国に派遣し、西条藩大庄屋の説得にあたり騒動を抑えた。E久左衛門智清(28)
1749寛延02己巳年 ようやく立川別子の合併、大別子が実現。泉屋が立川銅山を手代名義 (美坂杢兵衛)で請負う
E久左衛門智清(29)
1750寛延03庚午 大坂第二次銅座廃止
1750寛延03庚午 秋田藩主佐竹右太夫より秋田御銅支配役に任じられる E久左衛門智清(30)
1752宝暦02壬申年 秋田藩はこのころから加護山での鋳銭の計画を立て始める。
1770明和07庚寅07月05日 E久左衛門智清(50)歿。F大坂屋久左衛門清冨(24)が家督継承。 尚智清の妻の紀伊は3代大阪屋久右衛門の娘であった。
1773年_安永02癸巳年 秋田藩は平賀源内と吉田利兵衛の二人を招き銀絞りを試みる。
1774安永03甲午年 G久左衛門鰹清生誕
1774年_安永03甲午年 南蛮吹は当時幕府の統制化にあったが、秋田藩は秘密裏に平賀源内を招き銀抽出を試みるが失敗、江戸藩邸御用人太田伊太夫を通じて大坂屋に協力を要請。F久左衛門清冨(28)
1775安永04乙未年08月03日 大坂屋久左衛門の計らいにて要用の道具を密に下し、この日手代善右衛門ら7名が秋田に下る。(加護山製錬所)  F久左衛門清冨(29)
1775安永04乙未年09月03日 大坂屋手代善右衛門到着(加護山製錬所) 善右衛門は藩内を調査し篭山(秋田県能代市二ツ井町)に銀絞所を操業させ成功を収めた。  F久左衛門清冨(29)
1782天明02年 大津市史によれば安永07年からこの年までの五年間敦賀からの大津廻着銅は563駄、年平均110駄程度である。北国の銅の産出量はかなり減っていたと思われる。
1784天明04甲辰05月25日 F久左衛門清冨(38)没。代わってG大坂屋久左衛門鰹清[11歳)が家督を継承
1804文化01甲子年 加護山銀絞所を拡張し生産量の拡大を図り、結果的に大坂屋は相当の利益を得た。一方、大坂屋から秋田藩の直山となっていた阿仁銅山は荒廃が進み、行き詰まった藩は再度大坂屋に経営を依頼する。八代久左衛門鰹清は手代彦兵衛、儀兵衛らを秋田に派遣して阿仁小沢山、八盛銅山、院内銀山、藤琴鉛山などの経営にあたらせた。秋田藩は手代彦兵衛に御裃拝領と50石の扶持を付与し厚遇した
18060618文化03丙刁05月02日 吉岡銅山の福岡屋大塚理右衛門宗輔歿 享年42
1810文化07庚午 加護山銀絞所における大坂屋の経営権を没収し、藩直営とした。
1816文化13丙子年 G久左衛門鰹清(37)の次男佐次郎生誕、後のH久左衛門清憲
1818文政01戊寅年 G大坂屋久左衛門鰹清の三男武松(後のI大坂屋雄三郎堅信)生誕
1833天保03壬辰年 G久左衛門鰹清は50歳で隠居し、次男佐次郎(18)H駒太郎清憲に家督を譲る。長男の熊太郎は早世、三男の武松(後のI雄三郎堅信)は大坂屋新分家となる。
1836天保07丙申 道頓掘釜屋町で銅吹を復活し幕末まで続行
1850嘉永03庚戌年10月20日 G大坂屋久左衛門鰹清(77)歿  H駒太郎清憲(35)
18630905文久03癸亥07月13日 吉岡銅山の福岡屋大塚彌衛門歿 享年71
1867慶応03丁卯年10月14日 徳川慶喜による大政奉還
1867慶応03丁卯年12月20日 H駒太郎清憲(52)死没、大坂屋はすべての事業から撤退する。
1873明治06癸酉08月26 J官浪幸太郎生誕
1872明治05壬申 I雄三郎堅信歿
1896明治29年03月11日 H大坂屋駒太郎清憲の妻なを没
1942昭和17壬午年12月28日 J官浪幸太郎歿
1952昭和27壬辰年 14代官浪辰夫生誕
現在 初代から数えて14代目の官浪辰夫さんは「豪商大阪屋久左衛門」HPを作成。公開しておられます。
「銅商人大坂屋(おおざかや)」について何かご存じのことがありましたら教えてください。

 か、または E-mail  iti11@kne.biglobe.ne.jp へ、お願いします。

 

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大坂屋14代目のHP

別子銅山


 

 

 

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